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金剛遊山
弘誓寺

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境内案内

弘誓寺の明王殿。

弘誓寺開山の由来

 當山の由来は、今から1200年前の平安時代前期に遡ります。その頃は岬の先端に位置し、平坦地は海の時代。都から800キロ離れたこの地で、弘法大師は数日間座禅瞑想に励んだ。

 その間、水平線から昇る朝日がまるで観音菩薩が現れるかのように見えたことから、「この地に所縁のある者は、観音さまを信仰することによって幸せになれるのではなかろうか。」と感じた弘法大師は、一寸ばかりの観音像を彫り納め、その目印として波打ち際に一本の松を植えたのである。それから此の地を植松と呼ぶようになったと伝えられます。

本堂(明王殿)

 本尊は不動明王で江戸後期の作とされる。本来、弘誓寺は観音菩薩を本尊としたが、雷神山の南に位置した庫裡が延焼した折に、現在の地に庫裡を移転。徐々に参詣者が増えると観音堂は手狭となり、庫裡は増築されて本堂としての役目を果たすようになった。現在の本堂は、昭和48年6月に改築されたものである。

本堂外陣。自由に参拝できます。

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明王殿の五大明王(中央にご本尊 不動明王)。

太子像(本堂内)

 仙台空港線が運行されるに伴い太子堂駅が新設されたが、江戸期まで存続していた弘誓寺末寺の太子寺が由来である。

 太子寺は、聖徳太子16歳のお姿を安置した寺であった。太子の父用明天皇は病弱だったと言われるが、そんな父の姿をみて太子16歳の時に何とか父の病を治したいと願い七日間、御堂に籠って祈り続けた。御堂の外で待ち続けた用明天皇が目にした太子のお姿は眩いこと限りなく、自然と掌は合わさった。その後、用明天皇の病は癒えたとされる。この話が広まると、聖徳太子16歳のお姿を拝むと病が治るとの信仰が出来あがったのであります。

太子幼少期の伝説は太子信仰として民間に広まる。

観音堂(旧本堂)

 観音堂は栄枯盛衰を繰り返しながらも當山開山の証として、奥州街道から五十段の石段を登った正面に鎮座する。仙台藩主伊達綱村公によって建立された四間四面の旧観音堂は、名取市第7号の有形文化財に指定されていたが、昭和61年2月に放火によって焼失。現在の観音堂は、翌年に再建されたものである。

  身の丈4尺程の本尊正観音菩薩立像の胎内には、弘法大師作の観音像が納められていたと伝わるが、堂宇の焼失と共に灰燼に帰した。

館腰神社のすぐ隣にある。自由に参拝できます。

日切地蔵堂

  江戸中期に造立された身の丈5尺程の石のお地蔵さまを安置する。観音堂同様に昭和61年に焼失し、翌年再建された。

  北上川の河川改修が難航した折、伊達政宗は天台僧の栄存法師を石巻へ招聘し、工事の進展を計ったとされる。その甲斐あって河川工事は成就し、栄存は石巻の民から絶大な帰依を受けた。しかし、時の領主であった笹町新左衛門は栄存の評判を妬み、女犯の罪を吹聴して江の島へ流罪とした。栄存は法力を用いて新左衛門を調伏し、新左衛門は狂乱して家族を惨殺し笹町家は断絶してしまう。館腰植松から笹町家に奉公していた娘が、世話になった栄存の菩提を弔うため當山に栄存等身大の地蔵菩薩を奉安すると、栄存の法力に縋ろうと多くの者が参詣し、日を決めて願掛けすると願いが叶う「日切地蔵尊」と呼ばれるようになった。

日切地蔵。

地蔵堂。自由に参拝できます。

講堂

  令和元年12月に落慶。本尊の十一面千手観音は、人の悩みや苦しみを救いたいと願い修行を重ねた仏さま。最初は私たちと同じ顔も一つで手も二本でありましたが、あらゆる方角の者を救うために顔は11に、あらゆる手立てで救うために手が千本になった観音さまの究極のお姿。脇侍左側の仏さまは毘沙門天。右側の仏さまは吉祥天。お二方はご夫婦で、二人から生まれた子どもが善膩師童子。お二人は無限の可能性を持つ子どもとして大切に育て、やがて善膩師童子は観音さまの覚りの境地にまで達し、十一面千手観音となられたのであります。

 講堂は、そのお寺が何のために建立されたかを最もよく現したお堂。この地に所縁ある方々が観音信仰によって幸せになって頂きたいと開山されたのが弘誓寺。お参りされた方々のご家庭の家内安全・夫婦円満・子孫繁栄を願うものであります。

講堂。自由に参拝できます。

講堂の千手観音菩薩と毘沙門天、吉祥天。

仁王門

 山門建立は歴代法印の悲願であったが、度重なる災害や時代の変革によって機を逸し、第61世運泉代になり荘厳な威風がやっと成就した。

  本瓦葺の総青森檜葉入母屋八脚門は平成17年9月に落慶し、樟の寄木造である仁王像は京仏師の流れを汲む帆苅黌童氏の作である。

仁王門。

化け石観音

 梵字が刻まれた石碑は、鎌倉時代の造立と伝わり、当初は雷神山古墳の裾野である現在の館腰小学校西に祀られていたとされる。

 伝説によれば、「ある家の一人娘が奉公人の若者と恋仲になったが、親より許されぬまま若者は他の集落に追いやられたと云う。嘆き悲しんだ娘は住内明神に『若者に逢わせてほしい』と願ったところ、若者が毎晩のように娘を訪ねて来たと云う。毎夜出かける娘の後を家の者が跡をつけると、娘は梵字が彫られた石を抱いていたと云う。」この出来事以来、観音菩薩の梵字が刻まれた石碑は、「化け石観音」と呼ばれ、男女を引き合わせる観音さまとして参詣する者が増えたとされ、いつ頃からか弘誓寺境内へ祀られるようになった。

不思議な力をもつ化け石観音。

開山堂(大師堂)

 弘誓寺開基である弘法大師が祀られている開山堂。

開山堂。